佐賀藩聞役関傳之允が「重役の者に尋ねます」と言って辞去したが、その後重役の者は来ない。水5艘の追加要求を好機と見た図書頭は関傳之允と福岡藩聞役花房久七を呼び出した。異国船(フェートン号)の出現以来、関傳之允の呼び出しはもう十回を超えている。そのたびに厳しく叱責され、それでもなすすべのない関傳之允はこの頃相当心理的に追い詰められていた。それでも彼は図書頭の責めを上司たる「重役」に振ろうとはしなかった。「重役に尋ねます」と言ったが、その重役を連れて来て説明をさせようとはしなかった。これには佐賀藩の警備責任を厳しく叱責し責め立てる図書頭の前にこの「重役」を晒せない、という意思があったとしか思えない。現代の組織であれば、重大なミスがあった時には上級者が弁明をするのが誠意とみなされる。最悪の場合、トップの記者会見が求められる。
しかし江戸時代の序列は違う。前にも書いたがこの「重役」は上司でありながら「主君」の係累であったと思われる。長崎と言う「世界の窓」「情報の宝庫」に鍋島家の将来を担う人材を蔵屋敷の長として送り込むことは十分ありうる話である。とすれば何としてもその名誉を守らねばならない。十八歳の「重役」本人はこの事態に相当気を揉み懊悩していたというが、関傳之允は彼を表に出せなかった。当時の宮仕えの辛さである。
60章でも書いたがこの「重役」を調べるのは手に余る。佐賀県の図書館など、将来どなたかが突き止められるかもしれない。
関と花房の二人が直ちに参上すると、オランダ人が襲われたという第一報以来の凛々しい甲冑姿の図書頭はその後の焼き打ち準備がはかどっていたら今にも攻撃を開始する勢いだったので、関は泡を食ったと思われる。
「いまだに深堀藩からは焼き打ち手段についての報告は来ておりません。いろいろ準備もあるので今暫し時間をいただきたいと申しており、図書頭様の御出陣を負取り止めいただきたいとの気持ちでは毛頭無く、まだ焼き打ち準備が出来ておりませんからとの申し分でございます」
これはまさに涙声で平身低頭、畳に額を擦り付けんばかりではなかったろうか。その上、関はとうとう上條徳右衛門に「私は聞役で軍役ではございません(のでわからないのです)」と悲鳴のような釈明をする始末であった。
呆れ果てた上條徳右衛門が遂に切れた。手を変え品を変え弁明を重ねて返事を引き延ばし、
毎度同じことばかり言う(深堀藩への丸投げの事か?)ので埒(らち)が明かぬと思った上條は、『この一大事の最中だから そちらが話すことをどう考えるかはとにかく置いておいてと断って=大騒動の中なので口上(言い分?)間違いなどあって記録するべきなので両人の前でその旨確認した上で、二百年来こういうことがなかった時代だから油断もあるかもしれないが鍋島家の恥とこそ思われよ』と吐き捨てた(崎陽日録29p)。
剛毅な上條徳右衛門の真骨頂と言えようか。奉行所No2とは言え幕府の中では御家人風情が大藩佐賀藩の聞役を罵倒したも同然であったから、佐賀藩内では中堅の役職の聞役を勤める関傳之允にとってはこれほどの恥辱はない筈であったが、関にはこの時その自覚さえあったかどうか。
このやり取りについては用部屋日記に詳細が記されている(通航一覧428p)。
『無程、軍役の二人(関と花房か?)が出向き申し上げたところによれば、「焼討ちの手続きは未だ深堀からの指示がなく、実行には至らず。この件は段階的に進めるべきことがあり、延引しております。しかしながら、決して御奉行の出陣をお止め申し上げる意図ではございません。ただ、焼討ちの準備はいまだ整わず、御供の人数も本国から到着していない。我らは単なる伝令役であり、軍役の者ではないため、このように申し上げた」とのこと。
そこで、直ちに筆と紙を取り寄せ、その場で口上を書き取らせた。混乱の最中においては、多くの事柄が重なり、行き違いが生じることもあるゆえ、それを防ぐために書き留めた次第である。そして、その書付を二人に見せ、「この通りで相違ないか」と問いただしたところ、二人とも異議なく承知した。よって、さらに詳細を確認すべく、この書付を保管することとした。
なお、この件は重要な事柄であり、後日の証拠ともなるゆえ、慎重に対処し、誤りがあってはならないと考え、書付を作成した。その後、甲斐守へと引き渡した。』
これは聞役二人の言動を書き留めて、長崎奉行の軍役命令に従えなかったという公式記録として残すという事で得ある。江戸幕府初期の「武断政治」の頃であれば両藩(少なくとも佐賀藩)のお取り潰しは必定であったろう。
ここまで責められる事態は関傳之允個人だけではなく、大藩と称される佐賀藩そのものの恥辱であった。長崎市内ではこの事件における佐賀藩の失態は長く嘲笑の的となった。
さてそれでは佐賀藩本藩はどうの湯な状況だったのか?次章で探っていこう。